高校時代 アメリカンフットボール @5
アメリカンフットボールとの出会いは、小学5年生の時の担任・西川先生が教えてくれた甲子園ボウル。
何これ、カッコいい。お兄ちゃんになったらやってみたい。僕の憧れのスポーツになりました。
そして、中学の時だったか、NFLのスーパーボウル。シカゴベアーズの映像を見るのです。
好奇心旺盛な僕には、あの迫力が衝撃的すぎましたね。
選んだ高校は長浜高校。そして、アメリカンフットボール部に入部。チーム名は、ランドパワーズ。
入部と同時に先輩のかっこよさに魅せられます。大人に感じたな~あの時の先輩達。QBの先輩に教えて頂きました。フットボールは、スタイリッシュにカッコよくだ。しばらくして、ヘルメットにショルダー、各種のパットを購入。嬉しかったな~。自宅に持ち帰って鏡の前で何度も自分の姿を見たのを覚えています。入ってくる刺激が違うんです。
当時、僕の相性にピッタリのスポーツだったのですね。
入部した長浜高校・アメリカンフットボール部は、県下でも強豪校。監督、コーチの元での練習でしたが、選手の自主性を重んじて頂けるクラブ。特に先輩方の人柄がよかった。体育会なのに暴力・イジメなし。上下の関係はありますが優しい先輩ばかり。そして、ほんと先輩達カッコよくてセンスがいいです。
上の写真の左奥のグレーのジャージが北川監督。毎日、グラウンドに立ち練習を指導して下さった監督です。
そして、常に僕達のことを気にかけて下さり、見守って頂けていたように思います。
3年時、春の高校総体。惜しくも準優勝。写真は、八日市戦。
僕のポジションは、WR・レシーバー。QBがボールを投げます。そして、そのボールを受け取る役目。フットボールは、すべてのポジションで役割が明確化されています。そして、セットプレーによって相手陣内に攻め込む陣取り合戦のスポーツ。戦術論が大切なのです。
ですから、一人の個人技も大切ですが、チーム力でのプレーの完成度がもっと重要なのです。そして、対戦相手の分析。チームの現状。そこからプレーを描き、1ヤードを取りに行くのです。点数を取られても取っても何故が問われます。そこが大事なのです。
もちろん、人間がやることです絶対はないのですが、限りなく絶対に近いことを求められるスポーツですね。だから、思考能力が備わりました。本来は、勉強で学ぶべきものですが、僕の場合はフットボールが教えてくれましたね。
八日市戦に勝利し、みんな喜んでいる姿。試合が終わると王将で反省会。駅前の茶しんも行った。ホワイトギョーザを食べに。練習が終わって、帰る方向が逆なのに行ったな~。懐かしすぎる思い出。
人数が50人を超えるチームならオフェンスとディフェンスは別々の選手がプレーできます。本来のフットボールのスタイルはそうですから。けれど、長浜高校の場合、新入部員の1年生を入れて30数名実際にプレーするのは、3年と2年。だから、みんなオフェンスもディフェンスも兼任になるのです。そこがチーム事情の大変な所でしたね。
写真は、3年の春の関西大会。関西学院高等部との1回戦。あの名門の関学。学校をあげての応援にスタッフ。そして、80名くらいいたよなあの部員の多さ。前半、先制したのは僕達、長浜高校。嬉しかったな~。
そりゃ、あの関学から先制の1本とったんだから。
そして、前半戦の折り返しまで、1本対2本の互角です。大健闘ですよ。けれど、後半からスタミナ切れ。
けが人続出。相手は、80名だから交代選手なんて山ほど。けれど、僕達も必至で相手の攻撃を食い止めるんです。もちろん僕も、オフェンスもディフェンスも兼任でプレー。
この一戦、とにかくタックルをした。止めた。抜かれても追いかけて止めた。それしか思い出に残っていません。
結果、大差で敗れることになるのですが、力を出し切った感があって、僕はすがすがしかった。
完全燃焼!これが関西大会の思い出。
記念として残っているもの、1988年、1989年・関西大会出場と1989年・全国大会出場の3つのバッチ。大学受験にすべて失敗して浪人することになるのですが、レシーバーのキャッチングが分かってきたのが3年の夏。だから大学へ行ってもフットボールを続けようと思った。
3年、2年合わせて19名。人に言わせれば、マイナースポーツに写るかも知れません。競技人口が少ないですから、そして、当時で滋賀県下8校しかありませんでしたから、けれども、滋賀県予選でも3回勝たないと優勝はないのです。このハードコンタクトのスポーツを短期間の内で3回勝つことの難しさ。それも19名でです。僕は、ここに価値があったんじゃなかったのかなって振り返って思います。
僕に思考術を授けてくれたアメリカンフットボール。この春から、母校の長浜高校は統合されます。名前もなくなりますが先輩や僕達が培った伝統を引き続き受け継いでフットボールを続けて行ってほしいですね。
あっそうそう。1年時、背番号を決める時、当時のキャプテンが名前が吾一だから5番なって背番号を頂くことになる訳です。それから愛着もあってか5番は僕のプライドになりました。青春を賭けた良き思い出と共に。